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ヒストリーof社労士

» vol17. 両団体、新人事体制なる

 社労連の49年度通常総会(6月3日)は大幅に遅れていた大阪会の加入をめぐり大荒れに荒れたが、結局、入会を3月31日にさかのぼることなどで合意がみられた。このあとの役員人事に入って深夜まで紛糾、役員選考委員会の決定を不満とする代議員の退場が相次ぎ、定員を割ったため流会となり、1月26日の臨時総会に持ち越されるという事態になった。
 流会の原因となった役員人事問題とは何だったのか。
 社労連の役員構成は、会長(小川平二氏)の下に会長代理(中西實氏)を置き、会の運営は総務、経理、教育指導、綱紀監察、調査研究、厚生の6部長制をとっていた。今次総会は役員改選の年に当たっていたため、社労連としてはこの機会に人事構成をすっきりしたい考えを持っていた。
 まず、会長代理といったあいまいな呼称をやめて名誉会長、会長制とする。また、副会長も現行の15名を6名に、部長制をやめて専務理事制を敷き、名実ともに全国組織としての本部事務局機構の確立をはかりたい意向だった。
 創立2年目でもあり、一応の基礎ができた社労連を発展させるため人心の一新をはかろうと中西氏は、役員改選を機に連合会として機能を発揮する「本部事務局」構想を打ち出し、また、あいまいな「会長代理」という呼称を廃止しようと考えたのも、日社労との話し合いを間近に控えたこの時期、当然であったろう。
 ところが、この総会でこの構想に横槍が入ったのである。それは「社労連は開業者を中心とした都道府県会で構成されている。開業者ではない中西氏が会長に就任するのはおかしい」といった意見が出てきたため、役員選考委員会では中西氏を”学識経験者”理事として推薦、理事会の互選によって会長に推そうという苦肉の策がとられた。しかし、選考委員会で「学識経験者理事を認めない」との決議が採択されたため、中西氏の理事選出は実現しなかった。総会はこの選考委員会決定を不満とする代議員の退出が相次ぎ定数を割ったため人事未定のまま流会となったのである。
 内部抗争が激しかったのは社労連だけではなかった。日社労でもまさるとも劣らない”コップの中の嵐”が吹き荒れたのがこの49年であった。
 日社労の第8回通常総会は6月7日、東京・内幸町の飯野ホールで開かれた。日社労もこの年役員改選の年に当たっており、社労連との友好ムードが高揚している状況のなかでどのような新人事、新施策が掲げられるかが注目されていた。
 新役員人事は、前身の日本社会保険士会創立以来、一連の政治的手腕を発揮して同会を業界のオピニオンリーダーに育て上げた笠井勝三郎副会長と、その右腕として活躍していた森下総常務理事が解任され、代わって元東京都保険部長の永野秀雄副会長と橋高正風常務理事の留任、森下氏の後任には元新宿社会保険事務所長だった矢沢昭氏が事務局長として就任という結果になった。
 この人事について、当時月刊社会保険労務士界は次の記事を掲げて皮肉っていた。
  この一連の人事は”都庁派の無血クーデターである。つまり都庁派による本庁(社会保険庁)派追い出しが成功した。日社労の開業者対策を推進したのは森下氏といわれるが、会員中に多くの企業内社労士を抱えている同会にとって、少数の開業者対策よりも企業内社労士対策を重視する空気が強かった。したがって、森下氏らが推進する開業者対策を不満とした都庁派が、企業内社労士会員の勢力維持のためにクーデターを敢行したというのが真相のようである。

 

 社労連の役員改選を議題とする臨時総会は7月26日、東京・中野のサンプラザで開かれた。まず、さきの通常総会における役員選考委員会の決定が白紙に戻され理事を59人、監事5人、学識経験者理事3人とする役員定数が上程され、賛成多数で可決された。
 学識経験者理事は中西實、吉田博畝、坂井忠一の3氏で、坂井氏は労働省出身で専務理事事務局長候補であった。
 新しく選出された理事会は、互選によって中西氏を会長に選出した。中西氏は「会長就任を機に強力な執行部体制の確立と、財政の確立を真っ先にやりたい」と抱負を述べている。

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