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社会保険労務士法人西山経営労務事務所
西山 茂 先生
-Shigeru Nishiyama-
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社労士となった経緯 当事務所は、2008年4月1日に創業し、今年で17年目になります。業歴だけは中堅どころでしょうか。私は1983年3月に大学を卒業し25年間国民金融公庫(現:日本政策金融公庫)という中小企業融資専門の政府系金融機関に勤務しておりました。全国転勤をして最後はどこか小さな支店長で定年退職かというイメージを描いていましたが、急な家族介護の問題が生じました。このまま、お金と人を使って故郷の家族ケアを依頼し=「自分は会社を辞めない」という選択肢と、いっそ「退職し地元の新潟に戻る」という2択を迫られました。45歳のときでした。
そんなとき、東京会の大谷先生(ソラーレ社労士法人)の本をたまたま目にし、がんばれば中年からでも開業ができ、また業界の年齢構成も50代以上が多いという事実を知りました。1年間だけ限定で受験勉強をし(実際は10月中旬ゆえあと10か月間)、もし合格すれば神様がその方向を示しているのだと考え、平日1時間・土日は1日8時間=計1000時間になるよう時間割りをして受験勉強をしました。課長職の激務で、実際の勉強時間は、平日は夜の12時から1時間くらい・・というかなり無茶なやり方でした。
翌年8月に受験をしました。その年は「静岡会場事件」と言われた同会場だけ印刷ミスの訂正をしなかった事件があり、同問全員正解かつ調整のため「救済科目」が4つも設定されました。本来不合格の私は、なんとそのうちの「3つ」にひっかかって合格することになりました。天から「おまえはその方向に行け」と言われていると思いました。
最初は売上ゼロ、しかし不満もなし 地元で開業してからは、案の定まったく売上がなく、初年度はゼロでした。しかし、退職金もあり、家族のことが目的でしたので、各種セミナーに出て勉強ばかりしていました。2年目に入るとさすがに少しあせり「行政協力」に応募しました。ほぼ同時に地元地銀の年金相談員として最初の顧問契約が決まりました。この契約はサラリーマンの初任給以上の高額報酬でした。新潟労働局相談員の収入もあるので「これで安泰」と考え、積極的な営業活動はしませんでした。どちらもない日には、年金事務所の相談員を月4日間入れてもらい、1か月を満たしました。
経営者の向き・不向き 私は勤務時代の25年間、中小零細企業の経営者のお相手をしてきました。その結果、「経営」というのは遺伝的要素(親が経営者)とか、経営者向き・不向き・才能の要素が大きいことを体感していました。そして私自身は残念ながら親の代からの金融マンで、自営業の才能はないという自覚もありました。ゆえに開業に際し決めていたことが2つありました。1つは「人は雇わないこと」~勤務時代に部下に苦労したからでした。もう1つは「給与計算はしないこと」~そもそも一人ではできないですし、1円違っても文句を言われることがわかっていたからです。
運命がどんどん本格社労士へと導く ところが、2012年に、どうしてもと頼まれて労働保険事務組合を新規設立し、廃業する先生の小さな事務組合先を引き受けざるを得ない事態になりました(代表者の変更ではだめという条件でした)。3年間在籍した新潟労働局を辞め、さすがにパート1名の雇用は必要かなと困っていたら、年金事務所のパートの同僚女性が「私もつれて行け」と言って勝手についてきました。その方が2年目に、彼女の労働基準監督署労災課時代の同僚を呼び、手続の知識が私より詳しい2名+私の体制がスタートし、同時に、嫌がっていた給与計算業務まで引き受けることになりました。 その後は、多少の紆余曲折はありつつ、いろいろな方がお客さまを紹介してくださり、2016年には社労士法人化と同時に、一人親方団体を併設するまでになりました。役員報酬はサラリーマン時代の年収を超えてきました。これには2010年に受講した経営コンサルタント講座の師匠、小宮一慶さんから学んだ「お客様第一主義」と「キャッシュフロー経営」が大きかったかと思います。
今の想い 地元ではいくつかの自主勉強会に快く入れてもらい、無償で、社労士知識や事務所運営の貴重なノウハウをご教授していただき、感謝に堪えません。また前職時代から多くの業種を見てきましたが、毎月定額入金がある社労士のビジネスモデルは、かなり恵まれたもので、これにも感謝するしかありません。 私は勤め人として25年間過ごしました。そして自営業者としても25年以上は経営し、2つとも「まあまあうまくやった」という人生の称号を目標にしつつ、自分が受けた恩恵を、業界の後輩に還元していきたいと考えています。 |
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